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[随想:ロボット現役40年、いまだ修行中vol.6]40歳で突然の異動、事業部門の管理職に【前編】/小平紀生


本記事はrobot digest 2019年9月12日掲載記事を転載しております。

 

過去には日本ロボット学会の第16代会長(2013~14年)を務め、現在も日本ロボット工業会のシステムエンジニアリング部会長など、ロボット業界の要職を数多く務める三菱電機の小平紀生氏。黎明(れいめい)期から40年以上もロボット産業と共に歩んできた同氏に、自身の半生を振り返るとともに、ロボット産業について思うところをつづってもらった。毎月掲載、全12回の連載企画「随想:ロボット現役40年、いまだ修行中」の第6回。三菱電機の研究所で研究員をしていた小平氏、いきなり管理職として事業部門に異動したのは40才の時だった。


研究所から製作所に

 1991年、30代最後の秋に、研究所の上司だった渡辺光人部長に呼ばれ「稲沢製作所から声がかかった」と聞かされました。

 研究所生活にドップリでしたので、その時は「もはや事業では使い物にならないと思います」とあっさり断りました。
 身の程をわきまえていたのも事実ですが、今さら工場に出るのも面倒だというのが本音。
 しかし翌年1月に再び部長室に呼ばれ「稲沢製作所の寺園成宏所長直々のご指名で、ソフトウエア開発を仕切る課長職のポストまで用意された。僕も工場に出たかったので君がうらやましい」とまで言われては、もはやイエスと答えるしかありません。

 自宅に帰って転勤の話をすると、関西産まれ関西育ちの娘たちはパニック。ただし、当時小学校2年の次女は「おとうさんに会えなくなるの?」と、本人は引っ越す気はさらさらなし。ということで単身赴任が決定しました。


勝手の違う別世界

 愛知県稲沢市にある稲沢製作所は昇降機とビルシステムの事業拠点で、FAシステム事業の拠点である名古屋製作所とは別系統のロボットを製造していました。

 ロボット事業は開発部の管轄で、新規開拓事業として期待されていました。
 92年9月に赴任して最初に拝命したのは、ソフトウエア開発グループマネジャー。そこでは、昇降機やビルシステムまで含めて全部門のソフト開発を統括することが求められました。
 しかし、ソフトウエア開発の専門部隊を事業部門とは別にすることに反対でしたので、「ロボットのソフトウエアしか担当しない」と主張したところ、「それならばロボット技術を全部見ろ」ということで、翌93年にロボット設計課長を拝命。
 バブル崩壊直後で大掛かりな組織改編の最中のこと。「組織の数を減らして若手管理職に任せる」という方針に合致したようで、経験も浅いのにえらいことになりました。

 

リヒテンシュタインに出張した時の一枚

 

会社生活が一変

課長時代、海外出張時の写真(一番右が筆者)

 

 ソフトウエア開発のマネジャーはスタッフ的な立場で、研究所生活とは多少の連続性がありました。しかし設計課長となると、技術面の実質的な責任者ですので、会社生活は一変しました。
 まず、時間の流れ方が違う。研究所ではせいぜい週単位の計画でマイペースに活動していたものが、今度は15分単位で計画的に動かなければなりません。

 組織管理、コスト管理、計画立案、実績評価、上司への報告やスタッフとの調整など、事業の仕組みもまるで知りませんでした。
 過去のしがらみも全くなかったため、その面では業務改善には役立ちました。

 最も痛感したのは、管理職は本当に責任を持つということ。当たり前なのですが、実際に直面したときはカルチャーショックでした。


朝令暮改は恐れない

 就任数日後に開発現品会議がありました。開発成果が本来の製品企画と目標仕様を実現しているかどうかの判定会議です。

 議事内容はサッパリわからず、皆さんの仕事ぶりにひたすら感心して聞いていたら、最後に「それでは開発責任課長の判定お願いします」と来た。

 誰も助け船を出してくれる気配なし。要は、正解不正解にかかわらず「あなたの一言で明日からみんながどっちに向かって走るか決まるのだぞ」ということです。

 ここで学んだのが「時に応じて明確な判断を示すが、朝令暮改は恐れない」ということ。結論を出すべき時にはたとえ迷いがあっても是非を明確にする。ただし判断の間違いに気づいたら直ちに認め、修正するということです。


部下には「長嶋茂雄」で接する

 組織管理も規模が違います。研究所時代は若手の面倒を見るにしても数人でしたが、設計課長時代には何十人も面倒をみることになりました。

 ともかく機嫌よく働いてもらうしかないので、ポジティブ思考に努めるしかないのですが、意外と難しく、どうしても小言くさくなる。
 当時の上司である山本修開発部長(故人)に最初に言われたのが、「おまえには理はあるが情がない、部下はしぶしぶ付いてくるだけで、本気で付いてこない」。
 山本部長はいわゆるおっかない上司でしたが、それとなく情でフォローするところもありました。

 自分なりに工夫したのは、長嶋茂雄になること。小耳に挟んだ話なのですが、大投手の剛球を打者がホームランにした時、並みの解説者は大投手の油断を責めるのですが、長嶋茂雄は必ず打者を褒める。
 この姿勢を真似しましたが、うまくいったかどうかは当時の部下に聞いてみたいところ。

 

――後編へ続く
(構成・編集デスク 曽根勇也)

 

小平紀生(こだいら・のりお)
1975年東京工業大学機械物理工学科卒業、同年三菱電機入社。2004年主管技師長、13年主席技監。日本ロボット学会会長などを歴任し、現在は日本ロボット工業会のシステムエンジニアリング部会長やロボット技術検討部会長、FA・ロボットシステムインテグレータ協会参与、セフティグローバル推進機構理事兼ロボット委員会委員長などを務める。東京都出身、67歳。