東京大学・名古屋大学名誉教授,大阪大学医学部招聘教授,立命館大学総研教授
ScinceRobotics誌国際編集顧問,㈳スターリサーチャー代表理事
東京工業大学制御工学専攻博士課程の指導学生、ロボット学会フェロー
生田幸士
森政弘先生は昨年末ご体調を崩されましたが回復され,正月明けもメールのやり取りをされていましたが,肺炎のため1月12日朝に惜しくもご逝去されました.90歳を超えても4冊の著書を発刊され,昨秋にはロボット学会誌にDNAロボットの論文を掲載されています.97歳11か月のご生涯を最後まで学者として,笑顔で生き抜かれました.
森先生は1960年初頭,まだ世界がロボット学に気づく前から先駆的研究をされました.さらに物つくりコンテスト,ロボコン,仏教哲学に基づく問題解決手法「自在学」の創成,テレビラジオでの情報発信と,研究者の枠を超えた「真の学者」として活躍されました.
森先生のご経歴や活動などはウキペディアや著書にも詳しく掲載されていますが,三重県で生れ名古屋で育たれました.いつも笑顔の聡明な子供であったと茶道の宗匠(先生)をされたお母さまから聞いております.旧制第八高等学校入試では電気工学ある第2部を志望されましたが,点数が足らず 第2志望の医学生物系の第3部に配属されました.しかし戸惑いながらも学ばれた解剖学や生理学が,後に人工心肺制御,ロボット研究に役立ちました.
第2志望への進学の意義と,新分野開拓には複数の専門を学ぶことの重要性を説かれています.欧米大学のダブルメジャー制につながる彗眼です.筆者をはじめ,多くの迷う学生が救われました.
新制の名古屋大学電気学科の学生時代は,焼夷弾の破片をシャーシーに用いて無線機やラジオ,テレビまで自作されたそうです.同時にフルートの名手でもあり,学生時代は名古屋フィルでプロに交じって演奏されていました.当時日本を代表するフルート奏者の吉田雅夫東京芸大教授からも「アマチュアならこれ以上の修行は不要である」との高い評価を得られています.(お母さま談)1987年3月の東京工業大学のご定年の際,卒業・修了式に心に響くフルート演奏で学生を送られたことは印象深い思い出です.
大学院時代は大島信太郎助教授(後にKDD研究所長、FAX通信規格の発案者)と当時マイナーであった弱電分野(電子回路、通信分野の古い表現)を研鑽され、東京大学生産技術研究所の高橋安人研究室の助手として上京。砂糖の製造効率を飛躍的に向上させ、価格下落を招いた伝説のプロセス制御を構築し、第1回日本機械学会賞を受賞されました。その後、高橋先生はカリフォルニア大学教授に転出され、いよいよ森先生を中心にロボット学の若き研究室がスタートしました。
山下忠(後に九州工大名誉教授)とのペン回し可能な3本指ロボットハンドは世界の研究者を驚かせ,木下源一郎(後に中央大学名誉教授,第9代ロボット学会会長)との触覚センサ,梅谷陽二(後に東京工業大学名誉教授,第5代ロボット学会会長)との高度なプロセス制御,多々良陽一(後に静岡大学教授)との化学反応を用いた人工筋肉,群れロボット,四足歩行ロボット,建築ロボット,身体性など,後年,ロボティクスの重要テーマ群がここで創生されました.
東大医学部の渥美和彦先生との人工心肺の制御系開発や,東工大の林輝先生とのマイクロマシン,柔軟なロボットなど,その後も新概念の研究の発案では世界一でした.
ただし,料理や演奏など創造的なタスクはロボットにさせない方が良いと書かれており,当時高校生だった筆者の心に刺さりました.(NHKブックス「ロボット その技術と未来」1969年刊)
ロボットの姿が人間に近づくとかえって恐怖心が増す「不気味の谷」現象は発表後40年を経て世界が追い付き,IROSで招待講演をされた時は世界の著名ロボット研究者が壇上にサインを求めに集まり,映画スターさながらでした.
爽やかな笑顔で独特の発想の講義をされる授業は毎週教室が満席で,東工大では今でも伝説となっています.南棟の教授室の窓際の石製の台の上には小型卓上旋盤が置かれ,書棚は仏教哲学全集で埋まっていました。「執筆ばかりしているとストレスで舌の先が白くなるから,時々旋盤を回して物つくりしている」と言われ,教授机の引き出しの機械加工部品を見せられ,驚きました.学生のレポートにはペンが入れられ、そのコピーを簡易綴じ冊子にして90歳頃まで保存されていました。ベテランの越田秘書と居られた教授室からは,いつも暖かいオーラの噴出を感じました.
1981年の東工大100周年の記念映画も,脚本,監督,撮影,編集,ナレーション,音楽すべてを一人でされました.テレビ出演も多く,批判する者もいたようですが,筆者は中学高校時代に森先生のテレビ番組と啓蒙書でロボット研究者を目指しました.同様のロボット研究者は少なくありません.
制御工学科の授業で,乾電池2個を用いて自転車をできるだけ長距離走行させる課題は,後年のロボコンの原点となりました。2018年春に南館の端に次女の森美樹さんデザインのロボコン発祥の碑が建立され,式典には先生はグリーンの服装で颯爽と出席されました.
「君はもっとバカにならないといけないね.論文になるかどうかなんて考えていたら良い研究はできないよ.」(博士課程で研究三昧になることの重要性を説かれていた)
「あまり論文や新聞記事など読まない方が良い.あれは過大に表現されているから.自分の研究に自信がもてなくなるので悪影響」(筆者が博士課程院生時代)
「もう君は博士になったのだから,今後,渡米したら自分の欠点,弱点を補うことより,長所に目を向け伸ばすことに集中したら成功するよ」(博士論文主査としての最終コメント)
「研究や人間関係で悩んだら,一歩下がって広い視野で再考すると解決策が見えてくる.透明なガラス窓にぶつかって外に出れないハエにならないように」(若手教授時代、人間関係で悩み相談した時)
「君たちはまだロボットを研究しているのか.僕はロボットという「新しい道」を拓いた.君たちも新しい道を拓いて欲しい」(筆者の紫綬褒章の祝賀会で多くのロボット研究者を前にした祝辞の冒頭で)
「非まじめ」のすすめは,筆者らのバカゼミやイグノーベル賞の原点.「簡秀技術」は医療福祉機器の開発のバイブルとなりました.
不肖の弟子の筆者は,一冊の本になるくらい多くの言葉でご指導,激励励いただきました.
森先生はお墓の下ではなく私たちの心の中に居られると感じています.先生をお手本にし,時々坐禅をして,死ぬまで研究,教育,社会貢献に尽力します.
心よりご冥福をお祈りします.
東京大学・名古屋大学名誉教授,大阪大学医学部招聘教授,立命館大学総研教授
ScinceRobotics誌国際編集顧問,㈳スターリサーチャー代表理事
東京工業大学制御工学専攻博士課程の指導学生、ロボット学会フェロー
生田幸士