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みのつぶ短信第19回「ロボット學の教育は大学では無理?(1)」


 

最近出版した拙著「浅田稔のAI研究道 - 人工知能はココロをもてるか」[1]の序章では,哲学者で阪大元総長の鷲田清一氏との対談で,「いまの教育体制ではロボット研究は無理?!」(p.10)という話をしている.その時の意図は,ロボット學として,認知学や心理学など問題外で,工学部の中ですら,機械,電気,材料,情報などと別れており,分野を越えた教育がなされていないからだ.この原因を根本的に教えてくれた書籍「大学という理念 絶望のその先へ」(吉見俊哉著,2020)[2]があり,紹介し,議論したい.

 

本書が教えてくれたことは,まず第一に,大学がそれ自体、理念であるということである.西欧において,大学は,中世における封建社会の「間」にあった自由都市において,封建諸勢力に対抗する教師と学生の協同組合として生まれたとされている.すなわち,大学(ウ二ベルシタス)は「組合」というのがもともとの意味である.今日,リベラルアーツというと,人文社会系の学問と誤解されているが,正確には,リベラルアーツは,代数学,幾何学,天文学,文法学,論理学,修辞学,音楽の自由七科からなり,文系,理系,さらには芸術系の区別がない.12世紀から13世紀にかけ,ボローニャ大,パリ大,オックスフォード,ケンブリッジ,14世紀から15世紀にプラハ大,ウィーン大,クラカウ大,ハイデルベルグ大,ライプチヒ大などが生まれ,都市の自由から大学の自由を謳歌していた.しかしながら,16世紀のグーテンベルクの印刷術の発明が,メディア史上の革命を引き起こし,ラテン語文化から各国の言語文化に流れ,近代知の巨人を登場させた.ルネッサンスの人文学者,ガリレオからニュートンの近代科学の創始者,デカルト,パスカル,ロック,スピノザ,ライプニッツなどである.どれだけ大学教授がいたか?と疑問視されており.この頃の大学は知的創造性を喪失しており,近世の失敗と言われている.実は,これが現代に通ずると主張する.高度に発達したネット社会では,気軽に専門知識が易しく語られ,大学の知の創造拠点の位置づけが危ういからである.

 

さて,18世紀に入り,専門学校やアカデミーが興隆し,19世紀はナショナリズムと帝国主義の高揚を背景に,大学は新たな誕生を迎えた.研究と教育の一致という「フンボルト理念」に沿うドイツ発の概念が20世紀を通じて流布し,旧制高校的なカレッジの伝統からなかなか抜け出せなかった米国の大学がカレッジのリベラルアーツを保ちながら,このドイツ型大学に大学院というラベルをはって導入し,自ら上底することで,世界的なヘゲモニー確立した.これが,今日の学部教育と大学院のねじれ関係で重要なポイントとされている.

 

これに対し,日本では,古来大学は,外国の先進的な学問や技術を教え,国家を運営するエリートを育成する性格のものであった.ただし,「数」と「文」が基礎であり,ある意味ではリベラルアーツ的要素を含んでいたようである.大学体制は,初めは唐の学問(儒学)を規範であったが,薩長新政府のもとでは国学に傾き,明治維新以降は欧州各国を,そして,第二次世界大戦後には米国を規範としており,実に「複雑骨折」ともいうべき有り様であったようだ.もう少し説明すると,旧制大学での実質的大学院レベルの専門研究も評価されず,その上の大学院が強化されてしまい,旧制高校時代の良きカレッジ的伝統の喪失,前期課程の一般教養教育は米国カレッジ式,後期に専門教育はドイツのユニバーシティ式,さらに大学院はアメリカのグラデュエートスクール方式で極度に折衷的な仕組みになっている.根がないのである.

 

ここまでで明らかであろう,ロボット學の教育が日本の大学で困難である理由を.部局・専攻中心の体制では,理工系分野内の分断もさることながら,人文社会系との連携など望むべくもない.この課題は,ロボット學に限らず,大学の存在自体に関わってくるのだ.蛇足だが,旧帝大の学長を総長と呼ぶのは,学部が主体で,大学全体が後付的な意味合いだからと言われている.次回は,日本の現状をもう少し詳しくみていく.

 

[1] 浅田稔,浅田稔のAI研究道--人工知能はココロを持てるか,近代科学社,2020.

[2] 吉見俊哉,「大学という理念 絶望のその先へ」東京大学出版会,2020