昨年度の日本ロボット学会学術講演会の二日目(10月10日)に特別講演していただいたカリフォルニア工科大学下條信輔教授から,以下の書籍を献本して頂いた.
「自分を超える心とからだの使い方」 ゾーンとモチベーションの脳科学 (朝日新書) 新書 – 2021/6/30
日本陸上界のスーパーヒーロー為末大さんとの共著である.為末さんがこれまでのレースで最高と思えるレースが3回あり,その時の経験として,自身の身体を阻むものが何もない超集中状態に入ったとのことで,彼はこの状態を「ゾーン」と呼んでおり,ゾーンに入れるように,いかに持っていくかが課題と述べている.下條教授は,ご存知のように,意識・無意識,潜在脳,身体性など,非常に興味ある課題を追求されてきており,この「ゾーン」は心理学でいうところの「フロー」の概念に近いと言う.すなわち没入状態だ.誰しも求めてやまない絶頂の経験であり,これをどう実現するか?為末さんは,遊びの無我夢中の中にフローがあるのではないかと言う.そして本書では,こう述べている.
「『必死の努力』は、『夢中』『リラックスした集中』には勝てない。『義務』は『無邪気』に勝てない。」
第21回のみのつぶ短信につながるではないか?京大元総長の山極寿一氏のスポーツの原点が遊びであり,ゴリラがよく遊ぶこと.そして,オリンピックのメダル獲得圧力など意に介せず,純粋に楽しんだスケートボード女子パーク決勝である.
為末さんとは,実は,赤ちゃん学会でシンポジストとして同席している.故小西前会長が大会長のわがまま(故小西前会長の言)として為末さんを招聘したときのことだ.日本赤ちゃん学会 公開シンポジウム「世界をつなぐ赤ちゃん」が2016年5月22日,同志社大学の今出川キャンパス良心館で開催された.
公開シンポジウム1(10:00〜12:00)
テーマ:運動と赤ちゃん
タイトル:人はなぜ動くのか?-スポーツ、発達、リハビリテーション、ロボット工学のクロストーク-
座長:多賀 厳太郎(東京大学大学院教育学研究科)
シンポジスト:
為末 大(元プロ陸上競技選手)
浅田 稔(大阪大学大学院工学研究科)
高塩 純一(びわこ学園医療福祉センター)
公開シンポジウムの様子
(日本赤ちゃん学会 News Letter Vol.17 2016年 春夏号(平成28年9月発行)より)
掲示されていたポスター
高塩さんは,環境支援の視座から脳性まひのある子どもたちの運動発達を支援する活動をされており,そこにも「遊び」感覚の重要性を指摘されてきた理学療法士である.座長の東大多賀教授のファシリテーションで共通課題としての身体性,リハビリなど多くの課題について議論し,2時間があっという間に過ぎてしまい,参加者全員で続きをランチタイムに行った.その時の為末さんの印象は,非常に鋭い研究者のマインドを持ったアスリートと感じた.いわゆる当事者研究者だ.
元の書籍に戻ると,「ゾーン」に至る過程も含めて,トータルにゴール設定し,論理的な道筋ではなく,身体が持つ限界をうまく引き出す試行錯誤の過程が重要で,下條教授の言を借りれば,「アスリートは身体の言葉を持っている.」である.本書の構成は,為末さんと(1,5,おわりに)下條教授(2,6)の個別の章と対談の章(3(下),4(為),7(為),カッコ内は主導側)をはさみ,読者はゾーンの本質に巧妙に導かれる.特に4章の12の質問やその回答は為末さんと下條教授のかなり深いクロストークで相互の理解と新たな発見が示されている.
認知発達ロボティクスの観点からは,「遊び」としての要件を構成的立場から明らかにし,ロボット自身が自発的に身体と環境の相互作用を起動し,その過程で得られた身体運動知覚パターンを再現しながら,さらに構造化していくことが報酬となるアーキテクチャが望まれる.しかし,言い訳がましく感じる.内発的動機づけによる報酬がリアリティを持つには,外受容感覚だけでなく,内受容感覚も当然必要だからである.ロボカップでロボット自身がモチベーションを持って続けるためには,勝つことだけを目的とするだけではなく,その過程を楽しめるように感じることが重要とのことが本書のメッセージと理解した.
全く無関係ではないが,アスリートの試行の結果に対するポジティブ/ネガティブ・フィードバックの意味合いが(制御)工学的な意味合いと異なることだ.一般にアンケートなどで否定的なコメントが返ってくると,ネガティブ・フィードバックが来たと称する.制御工学でのフィードバックのセンスと若干ことなるので,ここでは,環境からの応答とする.以下の4つが考えられる.
環境からの応答がネガティブで,それに対し,
(1) ニュートラルに持ってこようとする場合,初期値負のネガティブ・フィードバックになる.
(2) 更に落ち込む場合,初期値負のポジティブ・フィードバック
環境からの応答がポジティブで,それに対し,
(3) 更にポジティブになる場合,初期値正のポジティブ・フィードバック
(4) 逆に評判良すぎて怖い場合,少しでもニュートラルに持ってこようとする
場合,初期値正のネガティブ・フィードバック
図は,応答曲線の形状や制御器の記述の正確さは欠くが,目標値ゼロ(ニュートラル)のネガティブ・ポジティブフィードバックの収束と発散のイメージとして理解していただきたい.為末さんのゾーンに入るとは,(3)に対応しそうであるが,状況次第では,一旦落ち込むとそれが続く(2)に対応する.それでもなんとか平常心に戻そうとするのが(1)で,評判が良すぎると謙虚さがもとめられ,(4)になるだろうか?いずれにしろ,世間一般に言われているネガティブ(ポジティブ)・フィードバックの語感と制御工学のそれとは異なる.下條さんにそのことを伝えたら,「知らなかった」と言われ,通常の読者は世間一般の意味でしか理解しないのではないかとのコメントを頂いた.なかなか難しいものだ.
浅田稔
元会長,現在,大阪国際工科専門職大学 副学長,及び大阪大学先導的学際研究機構 共生知能システム研究センター特任教授