「はるばる来たぜ,函館!」がわかる方は,かなりの年配で,RSJの現役メンバなら何のこと?と訝られるだろう.このセリフのオリジンはさておき,酷暑の中,強冷房のRSJ2024大阪を終えて,公立はこだて未来大学[1]の香取教授企画の講演会(東大特別教授の合原教授と一緒)にやってきたのだ.「はるばる来たぜ,函館!」のほうは,「さかまく波を乗り越えて」だが,当方,大阪伊丹空港から空路で函館空港に降り立ったのは,9月7日(土)の午後1時前である.到着地函館空港の温度はなんと24度,その時,自宅大阪吹田北千里は34度と10度も違うではないか.しかもドライで清々しい.同じ便に,RSJ2024で久々に会った鈴木昭二未来大研究科長が乗っており,彼のお迎えの車に同乗して,ホテルにバッグを置き,会場に向かった.
函館は今回3回目である.最初は,2000年で,第3回ジャパンオープン2000が未来大で開催されたときである.終了後,チームを引き連れ,湯の川温泉で温泉につかり,ビールをたくさん堪能したおかげで,翌日の朝,天井がぐるぐるまわり,まともに立ち上がれないひどい二日酔だった.生涯初めての不覚であった.二回目は2006年5月に開催されたFifth International Joint Conference on Autonomous Agents and Multiagent Systemsでの招待講演[3](スライド2)だった.当時の学長は朋友・中島秀之氏で,彼は2004年から2016年まで12年間務め,まさしくみらい大の大看板であった.
ということで,18年ぶりの函館来訪だ.当初,みらい大での講演予定が,一般の方々にもということで,金森赤レンガ倉庫の金森ホールでの講演であった.阪大の元総長に金森順次郎氏がおられ,「かなもり」の読みであったが,函館は「かねもり」である.創業者は,初代渡邉熊四郎氏で旧金森洋物店(現市立郷土資料館)・旧金森船具店で輸入雑貨や船具の販売等,数々の事業をなしてきており,そこから来ているようだ.写真1,2は倉庫側から港側を眺めたもので,非常にいい天気である.写真3が倉庫正面である.金森のロゴとして,金を逆L字型の金尺にこめて森を配置したデザインだ.金森赤レンガ倉庫の歴史については,該当ページ[2]を参照していただくとして,倉庫業の走りのようである.明治40年大火からの復興の際,不燃質倉庫(レンガと組み合わせて頑丈かつ火災に強い倉庫群) をたて,驚くほどの速さで復興を遂げ,3年後には利益を上げるまでになったとのことだ.昭和63年(1988年)倉庫を改装し『函館ヒストリープラザ』をオープンし,今では,ショッピングモール(写真4)やビヤホールなど,多くの観光客で賑わっている.ブリッジ(写真5)を渡るとオルゴールホール(写真6)があり,来訪者が自作のオルゴール(写真7)を作れるイベントが開催されていた.
さて講演会は,香取教授の司会で2時半から始まり,最初に合原教授の「未来の知能に向けて:データと数学」というタイトルで,数理科学とデータサイエンス関係,そして最新のAI関連のお話であった.香取教授から小学生も来るので,専門家向けでなくと言われていたが,蓋を開ければ,小学生2名で他の50名ほどは学生を含む研究者,20数名が一般の方々であった.筆者の講演はスライド6のタイトルで150枚のスライドを1時間あまりのマシンガントークであった.2~3の個別質問のあと,パネル討論で講演会前の質問に答える形で,合原教授,筆者がそれぞれの立場で回答した.最新AI関係との共棲について,危惧と期待とが入り混じった議論が展開され,フロアからも様々な意見や質問が飛び出し,時間切れで終わったが,その後の意見交換会でさらに深く,新たな視点からの議論を展開した.最新AI・ロボットの技術とその将来についてだ.開発者,設計者が自分たちだけで設計方針を決めるのではなく,すべてのステークホルダーを交えて,未来の多様なあり方とその実現方法について議論することの重要性を再認識した.なお,講演会の様子について,未来大の角康之先生が撮影してくださった写真等を香取教授のはからいで,以下においてます.
https://photos.google.com/share/AF1QipOjXv6llWjI7774leBZqYjoFTxNFdw5LMim8sz7aKwvSwRe8UHk1uu-Eb7wfQ8ZAA?key=TE1yTlpad1lkQVE4R2I5a04tTVdJRU9yazVsRjR3
筆者のホテルは意見交換会の会場近くで,そのまますぐに戻れたが,飛行機嫌いの合原教授らは,翌日新幹線で帰京とのこと.駅近くのホテルに戻られた.4時間程度の列車の旅のようだ.筆者のホテルが五稜郭の近くであったので,三回目の函館訪問ではじめて,五稜郭を訪れた.Wikipedia[4]からの説明では,「五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造された。しかし、1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊。短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍に占領され、その本拠となった。明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された。その後、1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放され、以来、函館市民の憩いの場とともに函館を代表する観光地となっている。」
ホテルから徒歩7分程度で五稜郭タワーに着いたのが翌朝8時過ぎで,9時からしかタワーの建物がオープンしないということで,五稜郭の外周を散歩した.涼しいが直射日光はきついので木陰を探して,一周1.85kmの外周を散策した(写真8-11:写真10の左にタワーが見える).外周を終えて,中に向かう途中のフジ棚(写真12)を抜けると,箱館奉行所が見える(写真13,14).中に入ろうと思ったが,入館料現金のみということで,現金を持ち合わせていなかったので,諦めて建物の周りを探索した(写真15,16).中には入れなかったが,建物の規模など窺えた.裏に回って,建物の周辺をぐるりとビデオで捉えた(ビデオ1).五稜郭の中央部分の雰囲気を味わってもらえただろうか?
さて,先ほどの箱館奉行所に向かう直前の9時前の時点では,五稜郭タワーのオープンを待つ長蛇の列ができていて,タワーを諦めようとおもったが,帰り際,9時15分で列なしだったので,入館してタワーを登った.地上90mからの展望は素晴らしく,五稜郭のほぼ全景が見渡せた(写真17).
さて,今回の函館での講演タイトルをみると18年前と大きく変わっていない.本質的な課題なので,普遍的だとの 言い方もあれば,大きな変化が起きていないとも解釈され,複雑である.少なくとも,最新AIの進展により,同じ言葉を使ってもその意味するところは深まっている.その典型が「身体性」であり,再定義を迫られている.まだまだ課題山積だが,周りの環境はじっくり待ってくれない状況で,近いうちに結論を出さねばと思案した帰りの機内であった.
[1] https://www.fun.ac.jp/history
[2] https://hakodate-kanemori.com/about/history
[3] https://www.ifaamas.org/AAMAS/aamas06/invited_talks.html
[4] https://ja.wikipedia.org/wiki/五稜郭
はるばる来たぜ,函館!(※動画はこちらから確認いただけます) (PPTX:296MB)
浅田稔
元会長,現在,大阪国際工科専門職大学 副学長,及び大阪大学先導的学際研究機構 共生知能システム研究センター特任教授